合格者の添削例(東京芸大)

匿名希望さん 東京藝術大学音楽学部

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全体のコメント

残念ですが今回もまた、WIEの設定する合格圏とは言えません。その理由はとりもなおさず、課題が問うところの「音楽を理解するとはどういう事か」に対し、「これこれである」と答えていないからです。
たしかに、その答えの周辺については緻密に、かつ正確に述べられています。しかし、設問の問いに真っ向から応じた答案でないと、いくら優れた記述であっても評価されず、場合によっては採点対象外=0点、となってしまうのです。
ご自身で読み直してください。「音楽を理解するとは、…ということである。」と、簡潔かつ確実な概念規定をした部分はありますか? 少なくとも読み手にとっては、ない、と言わざるを得ません。
知識、国語力、表現力、全てに於いてずば抜けて優れているだけに、添削者としても誠に残念ですが、このままでは大変不安が残ります。前回コメントした「小論文とは何か」の部分を、ゆっくり読み直してください。

なお、お尋ねの件につき、先にお答えしておきます。

(省略)

→そうではありません。前回のコメント③、「どちらも同様に音楽として理解する人…」との記述によって、この段落全体は「能は音楽であるかどうか」の例を記したものとしか読みとれません。直前の「聴取態度」との言葉によって、論理がつながっているようにお考えかも知れませんがそれも違います。課題のテーマはあくまで「音楽を理解するとはどういうことか」であるからです。
 言い換えると、能が音楽であるかはむしろどうでもいいことです。音楽であるというのは自明の事とし、その前提で、それを理解するとはどういうことか、の例となっていれば申し分ない論理となったはずです。しかし、「音楽だと思ったから拍手した」などと書いてしまえば、この前提そのものを論じる=設問とはまったく別のことを論じることになるのです。
 同様に、「……」も的外れです。邦楽も洋楽も「音楽」という範疇でくくられる以上、それを論じるのはやはり「能は音楽かどうか」を論じることになります。
 おそらくご自身の弱点は、「……」のではなく、論理的思考力であると思われます。多少付け焼刃的な対策ですが、数学ⅠAの教科書を引っ張り出して、論理と集合のところをざっとおさらいしておいてください。


個別のコメント

a:この部分は、「音楽を理解するためにはどうするのか」を論じたものです。もちろん、コメントした「音楽を理解するとは何か」の記述がどこかにあれば、それを証し説明するために大変よい記述となったのですが、肝心のそれがないため、生きていない=論を構成するための有効な要素となっていません。少し厳しい言い方で恐縮ですが、この答案はルーのかかっていないカレーライスと同じと言っていいでしょう。それはカレーではなく、ただの白いご飯になってしまうのです。
 答案に即して言うならば、例えば「音楽を理解するとは、ただ感性のみではなく理論にも基づいて、その対象を解釈することである。」との一文が入っていたとすると、答案文全ての記述が生きてきたはずです。
b:これもaと同じです。「理解のレベル」についてはこの通りでよいのですが、やはり同じ理由で生きていません。
c:これもaと同じです。「理解の多様性」についてはこの通りでよいのですが、やはり同じ理由で生きていません。
修正案としては、ここを全て削除し、以下の文に置き換えます(下線部原文ママ)。
「つまり音楽の理解には、単なる感性的なレベルだけでなく、その感動を生み出す理論的、理性的なレベルもあり得るのである。よってこれらのレベルにおいて、どのような技法・楽理に注目するかによっても、音楽の理解には多様な可能性があるということになる。だがそれは、………。」
ここで添削者なりに、感覚的印象としての理解のレベルと、技法・楽理に基づくそれとの次元を分けてみました。この挿入によって字数がオーバーしますので、具体例としてのドビュッシー・ベートーベンの記述を割愛しました。あるいは、波線部を削ってもいいでしょう。
d:あくまでも「理解」に即した議論とします。それでもなお、この課題にとっては不要な記述とせざるを得ません。なぜなら、「音楽の理解についてあなたはどうしていきたいか」とは問われていないからです。
 一般的に言って、課題の要求に正確に応え、論じたとすると、ほぼ字数はそれで埋まります。不要な記述が入ったということは、逆に課題の要求に応じていないことがほとんどです。本番でも十分気をつけてください。 


上記コメントを参考にして答案を修正し、再提出して下さい。

西早稲田教育研究所
担当 高田正継

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