合格者の添削例(東大)

R・Oさん 東京大学文科Ⅰ類

・添削本文

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・添削コメント

全体のコメント

同時に提出していただきましたので、引き続き02年の第2問を添削いたします。
  こちらは、課題文の見解と解答者の見解の区別に関して、第1問目よりは配慮されています。しかし、やはりあと一歩ですが合格圏とは申せません。
  まず、課題文を参考にして解答者が「判断」したことを、課題文(筆者)の見解であるかのように書いています。この部分は、第1問目とは異なる形ではありますが、やはり課題文と解答者の見解を混在させるものであり、整理が必要になります。
  また、現在の答案では、「基準」の多様性を指摘しています。確かに設問の要求は「あなた(=解答者)はどのように考えるか」ですから、このままでも誤りとは申せません。ただ、もしこの「基準」が明確であれば、「迷惑」(あるいは「寛容」)の範囲も社会通念として存在することになります。そうしますと、多様な形であれ、「自己決定権」には社会通念による限界が設定されており「自己中心」とは言い切れなくなるでしょう。この部分で概念の関係=論旨に混乱が見られます。
  その他細かい指摘もしましたが、以上を中心に改善を検討して参りましょう。


個別のコメント

a:ここまでの添削で繰り返し指摘したことと重なりますが、どこからどこまでが課題文の見解なのか、明確にしてください。具体的には、*の部分で「課題文(筆者によれば)……と述べている」といった断りを入れるとよいでしょう。
b:課題文の読み取りとしてやや不正確です。後段で「基準」という概念を用いるのであれば、「寛容」という課題文の重要概念及びその相互関係を抽出する必要があるでしょう。
c:課題文では「自分を中心に考える」あるいは*部分の「自己中心(的な主張)」といった概念を使用していません。これは課題文を参考にしてはいても、あくまでも解答者の見解です。これをあたかも課題文の見解のように取り扱ったのでは、「筆者」が「提起している」問題とはいえませんので、厳密に言えば、設問の要求に応えていないこととになります。
まず、この部分ので段落を改め、課題文の見解と解答者の見解を分離した上で、これが解答者(=設問の要求する「あなた自身」)の見解であることを明示するようにしてください。
d:第1問目のd同様、ここで段落を改めましょう。ここまでは課題文の見解から解答者が論点(=「自分を中心」「自己中心」)を設定する段階、これ以降はその論拠となる事例ですね。
e:国語表現の問題です。これは、個人の好みや個性の問題でもありますから「こうでなければならない」というのではありませんが、極端な口語表現は文体の不統一と判断されるだけではなく、概念の関係=論旨を混乱させることにもなります。
ここでは、「無秩序な」といった概念の関係を示すべきだと思います。
f:この部分、概念の関係が曖昧です。
**のような指摘をするのであれば、この前の段落における※をした部分と概念の関係が不明確になります。

結局、「迷惑」あるいは「寛容」の「基準」は、そもそも存在しないのか、あるはい存在するが「知り得ない」のか、といった問題が不明確なままです。例えば、次のような概念の関係が考えられるでしょう。
①「迷惑」及び「寛容」の基準は全く個人的なものであって、社会的・集団的な「基準」はない。
このような場合には、行為者とその行為によって「迷惑」を感じたものとの当事者間で調整するしかなく、社会的な調整は不可能だといえます。
②「迷惑」及び「寛容」の「基準」が当該社会の異なる集団ごとに存在する。
各集団内では「基準」が形成される得るのですから、それと同じ過程で異なる集団間の意見調整を行い、全社会的な「基準」の形成が可能になるでしょう。
③「迷惑」及び「寛容」の社会的「基準」は存在するが、それが一部には知られていない。
この場合には、「基準」を教育などによって周知することが課題になります。
もちろん、これ以外にもさまざまな場合が考えられるでしょう。いずれにせよ、「迷惑」及び「寛容」の「基準」の現状を明確にすれば、そのあるべき姿およびその実現のための対策といった議論が可能になりますね。
例えば、第1問目とも関係しますが、世論形成によって全社会的な基準を設定していくことも可能でしょう。また、社会の構成員に全社会的な「基準」を自覚させる方法もあり得るでしょう。
このような改善をしますと、単なる問題点の指摘に止まらない議論ができると思います。

以上のコメントおよび解説を参考にして、再提出をお願いします。
ここも、第1問目のe同様、高校で学習する内容をどの考えるか、ヒントを出してみましょう。
高校の「政治・経済」や「世界史」で学習しますように、近代的世界観における、さらに現代の政治体制・社会構造の原理は、「自由」と「平等」だと言ってよいでしょう。このことは、フランス革命のスローガンである「自由(liberte)・平等(egalite)・博(友)愛(fraternite)」に集約されています。今、この3つの概念の関係を考えてみましょう。
「個(人)」の行動の「自由」を無制限に認めてしまえば、「全体(社会)」の調和を保障する「平等」を侵害するでしょう。逆に、「全体」の「平等」を厳格に追求すれば、「個」人の自由は損なわれます。これに対して、近代社会は「博愛(語源的には、兄弟愛)」といった情緒的な要素によって均衡を保とうとしたのです。
また、それは近代的個人が「等しく合理的(=平等に理性を持つもの、ちなみに理性raisonは“配分ration”と同源語です)」という同質の人間(まさに兄弟!)である、という「個」の側の原理が重視されていました。すなわち「自由」を求める「個」人は基本的に「同質」なのだから、複数の個人の自由が衝突しても、「どの(誰の)自由が優先されるべきか」当事者間で合意できるはずでした。
しかし、実は「個人」は、性(ジェンダー)・民族・言語その他の文化的な要因によって、決して「同質」ではなかったのです。したがって、「男性優位」「多数派民族優位」その他さまざまな「中心主義」が「平等に反する」ことが明確になるにつれ、近代の構成原理を支えていた「同質な個人たち」という概念は破綻します。特に、現代においては社会が複雑になり、各分野において高度な専門性が要求されるようになるにつれて、ますます個人の同質性は維持できなくなっています。そこで、新たな「個と全体」を結ぶ原理=「公共(性)」が必要になっているのです。東大文Ⅰが、重ねて「個(人)と全体(社会)」の問題を問うているのは、その根底に以上のような根源的な問題があり、特に法学部進学者には必要な視点といえるからです。
では、この両者をめぐって、現在どのような視点があるのでしょうか。1つは、「福祉国家」に代表されるように、全体の利益を優先する考えです。ここでは、「福祉」を必要としない人にも税金や社会保障費を負担してもらう必要が生じます。その点では、「自分には必要ないので、支払いたくない」という個人の自由は制限されることになります。しかし、20世紀にナチズムを初めとする全体主義の恐怖を体験した我々には、「全体」の利益を、「個人」の「自由」より無制限に優先する考え方を全面的に承認するわけにはいきません。
それに対して、「規制緩和」などの主張に見られるように、「個人の自由」を最大限認め、それが衝突する場合にも、立法や行政のレベルで対応するのではなく、裁判=司法の次元で解決すべきだ、という見解もあります。しかしこの考え方にも、アメリカに代表されるような訴訟社会を生みだし、そこでは「法律に詳しい」あるいは「法律に詳しい人間を雇う余裕のある」個人だけが有利という社会になってしまいます。「個人の自由」もまた、無制限には承認できないのです。
結局、いずれにしても、「個人の自由」「全体の平等(利益)」どちらか一方だけでは現代社会は維持できない、ということになります。
今回の課題文は「自己(=個人)決定権」は自立し得ない概念だといっているのは、以上のように「個人の自由」原則だけでは、近代社会は存続し得ない、という指摘なのです。そこで、社会=全体の調和を維持していくには、どのような視点が必要か、という考察が可能になります。『小論文を学ぶ』の立場なら、「モナド」「全体をモニターする個(人)」といった概念で原理的に考察することになりますね。


上記コメントを参考にして答案を修正し、再提出して下さい。

西早稲田教育研究所
東大後期小論文講座
担当 西田京一

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