合格者の添削例(一橋大)

S・Kさん 一橋大学法学部

・添削本文

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・添削コメント

全体のコメント

早速答案を検討します。残念ながら、まだまだ合格圏とは言えません。論の方向性はよいものの、個別の問題点が多すぎたためです。しかし明るい要素もあります。
力のない受験生は、とかく課題文に引っ張られて、何でもそのまま受け入れてしまうものですが、今回の答案のように、課題文に対して適切な批判(悪口ではなく)が出来ると言うことは、実は非常に大切なことなのです。
そもそも大前提として、知性の基礎に批判精神(能力)があることはわかってもらえると思います。与えられた物事に対して自分なりの判断が出来なければ、知性とは言えないからです。これは法学の世界でも同様ですが、特に指摘できるのは、法学が扱うのは世間の相反する立場の調整であることです。原告と被告の言う事は全く正反対である事が多いものです。それぞれの主張を丹念に分析し、どちらがより合法的か、合理的か、これを判断する事が、法学に携わる者、特に法曹には必要です。
従って論理の飛躍、論証の欠如(=非合理)を見抜く事は、法学に携わる者には必須の作業と言えるでしょう。
ちなみに前年度の課題文は、大穴が開いていました。おそらく読んで気が付いたと思うのですが、前半の話はわかりやすかったのに、後半になるととたんに曖昧さが増すのは、この大穴による効果です。従ってこの点について指摘し、反証し、別個の自説を論じなければ、実は正解になるように出来ていないのです。
通常の小論文ならば、「全く同意する」として、答案に書いてあるような、課題文とは別の論拠を持ち出せば、まず合格でしょう。しかしこの問題、しかも難関校の法学部であるという条件から考えると、これは批判精神がない事を表明するようなものです。従って、合格圏には達しない、という事になるわけです。これは、今年度も全く同じなのです。


個別のコメント

a:課題文の論旨読み取り誤り、または表現の不適切です。「直面」する対象は、他者しかありえませんが、「自然主義」はインテリ自らが取った立場であって、他者ではありません。
b:課題文の論旨読み取り誤り。第1に、「理想主義」を取ったのは「知識階級」の全てであるとは、課題文は述べていません。「自然主義」もまた、知識階級の産物です。第2に、「自然主義に直面し」たから「理想主義」を取ったのではありません。「理想主義」は、日露戦争の結果、課題文の言う「志士・実学型インテリゲンチア」の存在意義が薄れたため、これに直面した知識人が取った2つの立場(「自然主義」と、「理想主義」=白樺派・大正期共用派の立場)の、1つなのです。
c:設問の要求と異なっているため、問1全体が採点対象外です。設問はインテリの存在意義にかかわる「理由」を問うているのに対し、この答案は、課題文を要約した、あるいはインテリ事情の時間軸的整理です。全面的に書き直す事が必要です。
d:概念規定に無理があります。高等学校への進学者を、知識人として定義する事は、現代では無理と言えます。さらに、大学卒、院卒であっても、果たして知識人と言えるかどうか疑問でしょう。
また、「国民皆学」=「国民皆知識人」とも、言えないはずです。戦前の高等学校と、現代のそれとを同一視するのは、知識の不足と言えます。
従って、どのような人物を「知識人」と言えるのか、自分なりの定義を明瞭に行う必要がありますが、その定義は、広く受け入れられるようなものである事が必須条件です。そうでなくとも原則的にはかまわないのですが、受け入れられがたい定義を論証するのに必要な字数を考えると、現実的ではありません。
 この「知識人」に関わる定義は、この設問の根本をなすものですから、再定義の後は、問2の答案全体を、それにそぐうように考え直し、作り直す必要があります。
e:下線部dと、「国民皆学」の定義が異なっているように受け取れます。dでは、「国民皆学」を理由に知識人が「他の大多数と変わりはほぼ無くなった」としている事から、「国民皆学」=「国民皆知識人」と理解するほかありません。しかしここでは、一般的に「国民」が「皆」「学」ぶようになったことを述べていると受け取るほかありません。
総じて、「国民皆学」という言葉の定義が、ご自身の中でもはっきりと確定していないように思われます。小論文の中での概念は、正確に定義してから用いないと、論旨が不明瞭になってしまいます。
f:><前後のつながりが悪くなっています。文と文の間には、適切な接続語を補い、双方の関係を明らかにする必要があります。これは、関係が言うまでもなく明らかである場合を除いて、論旨明快な論作文の鉄則です。適切なつなぎのことばを考え、書き加えてください。

なおご質問のありました、前年度についてコメントしておきます。
筆者の論旨に大穴がある事に気付いていることは、大変結構でした。

なぜ大穴があるかというと、筆者が挙げている事例の特徴は、単にそこだけで当てはまる事柄ではないからです。「権威」の「力」である「礼儀と作法」が強制力を伴うのは、「都市」に限った事でしょうか? しきたりから外れた人間が疎外されるといった事態は、都市よりもむしろ村落の方が「すさまじい」と言えます。
勝手気ままな生活をし、町内会にも参加しない、祭りにも出てこないとなれば、村落では生活することが非常に困難になるか、そうでなくとも不愉快な経験に見舞われます。しかし都市ではこうした生活はむしろあたりまえで、こうしたしきたりを強制する方が、「変な人」と見なされて疎外されるか、時として迷惑行為として、まさに「権力」の装置である、法的な処罰の対象になります。
もちろん、都市には都市なりの、村落とは異なった「しきたり」があることは否めません。しかしそれは、筆者の言う「礼儀と作法」が、都市と村落では異なることを証拠立てるものであって、その効果の強弱や、あるいはそうしたしきたりの有無を示すものではないのです。
他にも、筆者の言う「見る・見られる」という側面についても、これは都市だけに当てはまるものではありません。周囲の目を気にするという意味では、村落の方が苛烈でしょう。「変な格好をするな」=「人と違う事をするな」という無形の強制力は、村落の方が強いのでは? こうした勝手な振る舞いは、別の言い方をすれば自由という事が出来ますが、まさに自由だからこそ、都市は新しい概念を作り出す事が出来、それが広く受け入れられれば、流行となるのです。田舎発の流行というものが成立しがたい事を見れば、これは明らかでしょう。従って都市よりむしろ田舎こそ、「見る・見られる」関係は強く作用するとも言えるのです。ここで付け加えておきますが、だからといって都市ではそれが弱いというのではありません。自由な発想や表現を「見る・見られる」という関係がなければ、都市発の発想は流行になるまでの切磋琢磨を通過する事が出来ないからです。従って「見る・見られる」という関係もまた、都市と村落では違うと言う事が言えるのであって、どちらかに「ある・ない」の問題ではないと言う事になります。

さて、ご質問にあった前年度の復習についてですが、練習のため別解を書いてみて下さい。前回の答案では、情報の視点から「都市」観を論じましたが、他の様々な視点が立てられるはずです。かなり難しいと思いますが、一回書いたのとは別の視点で論じる訓練は、難関校対策としては非常に有効です。是非取り組んでみて下さい。


以上です。コメントを参考に再提出して下さい。

西早稲田教育研究所
担当 高田正継

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