降りることの困難

百年、河清を待つ*

ではこうした時代に、我々はどう向き合うべきでしょうか。競争とはとてもつらいものですから、そこから降りる、というのも一つの選択です。

かつてネパールを旅した中島らも氏が、こんなようなことを書いていました。

ここネパールでは、誰もが道ばたにしゃがみ込んで、ただ何かを待っている。それはお金であったり、食べ物であったり、仕事であったりと様々だ。しかし待っているだけで、自分から取りに行こうとはしない。そうした雰囲気が、この国全体を包んでいる。
…うろ覚えですから、あるいは正確ではないと思いますが、文意はこの通りだったと思います。

ここで考えていただきたいのは、待っていたネパールの人々が、待つことで幸せになったかどうかです。
待つことに意味があるのは、助けが必ずやってくると期待できる時だけです。しかし世界規模の競争の中で、誰が、他者を助けてくれるというのでしょうか。すなわち、降りることにも困難がつきまとうのです。

皆さんの直面している困難もまた、同様です。
困難を解決できるのは、ただご自身一人だけであって、自分で学び、自分で努力し、自分で結果を、勝ち取るほかありません。
待っていても、現実はどこまでも追っかけてきて、やがて時が至れば、みなさんの上にのしかかるのです。

この点では、あるいはWIEも役立たずです。
WIEにできるのは、お客様が学ぶ際の環境を整え、誤りを指摘し、正しい方向性や知識を示すことだけであって、学ぶ行為そのものには、何ら手出しができません。
あるいは禅寺での修行のように、みなさんを山奥のお寺に閉じこめて、「この課題をやり終えるまではご飯抜きです」などとやればよいのかもしれませんが、そんな非道はできはしません。


*中国の故事成句。黄河の水は千年に一度澄むという伝説があり、そんな当てにならないことをいつまでも待つこと。転じて、待っていても無駄だ、という意味(『春秋左氏伝』)。


・講座開始のご案内 (2017/10/3)  ≫詳細